歳時記2024

JUL- AUG

MAY- JUN

京都は、もう昔の京都ではなくなった、というのは周知の事実。人々が静かに暮らす裏路地にでさえ、観光客の姿がある。路上に、ごみは溢れ、庭の苔は踏み荒らされ、日本人が禁忌としてきたことが、当たり前に破られる。昔から観光地ではあったが、どこかに観光客と京都人との間に暗黙の了解があり、保たれていた。だから、小さなあきらめと共に許容してきたように思う。自分だけの発見が多くて、その発見を親しい人に教えるのが密かな楽しみであった。その日の気温や湿気によって和菓子の下に敷く和紙を変える職人のこだわりなど、大切な心が溢れていた。SNSの登場で、隠される情報は極少になり、京都人は、心をざわつかせながら生きている。最近のお気に入りの場所はココ。誰でも入れるが、入り口がわかりにくく、狭さゆえに滞在時間は短く、人もまばらだ。いずれは周知の場所となるはず。京都・東山を眼下に臨み、静かな夕暮れを一人、シャンパンを片手に楽しむ至極の時間。一期一会、見ず知らずの人と、お行儀よく、この時間をシェアしたいと願うのは、もはや贅沢なのか。

MAR- APR

昨年の初夏に、最寄り駅から少し遠回りしてみようか、と思い立ち、いつもと違う道を歩いた。久しぶりに歩いた道の風景が少し変わっていた。京都が誇る企業の広大な土地に建つ社宅が取り崩されていたのだ。しかし、敷地内に枝幅が30メートル以上はあろうかと思われる巨木だけが残されていた。なぜ、あの木だけ残されているのだろう。そのうちに造園業者が来て、倒されるのだろうな、もったいないな、と考えて、それから、残された木が気になり始めた。ちょくちょく前を通るようになり、いつまで経っても倒されず、時に悠々と、時に寂しそうに佇んでいた。果たして、あの木は何の木なのだろう、という思いも、慌ただしさに消えていた。そして、春になって、思い立って訪ねた。桜だ。桜だった。なんと美しい。数々の人生を見てきた桜。外からは見えなかった隠されていた桜。だから、切れないでいるのか。桜は、こんなにもセンチメンタルな時間を持たせてくれる。

JAN - FEB

2024年の幕開けは。無常の震災から始まった。もはや人知の及ばない自然の驚異に震えた。テレビで見る現地の様子に、阪神淡路大震災の際に見た光景が、記憶の底から浮き上がってきた。一つ目は、地震の翌日に阪急梅田駅に後輩を迎えに行った時の彼女の戸惑いと驚きの顔だ。電車でわずか20分しか離れていない大阪は震災など無かったような変わらぬ日常があり、道に横たわる遺体の横を歩きながら避難してきた自分が、どこにいるかわからなくなった、と言った。もう一つは、倒壊したアパートの埋もれた1階から肘先だけ出ていた白い手だ。入社間もない私は、5時間ほどかけて自転車で現地入りした。視線の先で、その手は、微かに動いていた。声をかけると小さなうなり声が聞こえた。そこにいた2,3人の人を呼び、懸命に瓦礫をのけて、地面を掘った。幸いにも自動車のジャッキを持ってきた人がいて、引き出せた。懸命に瓦礫をのけた時に負った怪我の跡は、今も左手の人差し指の付け根に残っている。両親は手に残った傷跡を見て、何年も悲しがったが、これは見知らぬ人の命を救うお手伝いができた証だと思っている。

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You&Me

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トラックと灯篭

 

 

高校時代から仲良くしている同級生グループがある。中心的な6人は皆勤。その他、数人が入れ替わり、盆暮れのほかにも、あれこれ理由をつけて集まる。女性は自分だけ。住まいは、地元に半分、関東に半分と言う分布図。16歳から付き合ってきた面々は、もう人生の朱夏にさしかかっている。話題も年相応になってきた。その中の一人の話に、全員が聞き入った。「ちょっと早いけど、両親ともに施設に入ってもらったんやわ。俺はちょっと離れたとこに家を建てたやろ?実家が空くやろ?どうしたもんかな、と思ってたら、隣の広大な空き地に総合病院が建つことになった。それで、2年間くらい工事スタッフの仮宿に貸した。内装は好きなように触ってもいい、と言ったら、クーラー、洗面台、トイレ、流し台が新品になって返ってきた」。一同「それは良かったな」とうなずく。「それでな、しばらく放っといたんやけど、近所の長谷川から電話がかかってきて」「おー、あの同級生の長谷川くんか」「ガレージに置いてあったトラックが1か月くらい前から、無いで、て言われて。要するに盗まれたみたいや。廃車にしようと思てたから、まあ、ええけど」。「えーっ」とみんなが叫ぶ。「まあ、仕方ないな、と思ってたら植木屋から電話がかかってきて、灯篭がありませんで、と言われた。これまた盗まれたんやわ。それで植木屋が言うには、泥棒は素人やな、て」「な、なんで?」「灯篭の一番下の石台が残ってて、あれが無かったら価値無いらしいわ。これまた、デカい灯篭で、家を更地にする時に費用がすごいやろな、と思ってたから、まあ、良かった」「…なるほど」「それで、問題は、いつ盗んでいったか、トラックに灯篭を乗せたのか、という話になって、昼に作業服を着て、悠々と盗んだんと違うか、ということになったんやわ。しばらくして、きれいになったから、病院が貸してくれないか、ということになって貸してるんやわ」「それで?」「それで、どうせ更地にするから、自由に何してもいい、て伝えたんやわ。そしたら、こんなん、どないするの、ていう巨石2個を撤去して、古い外塀を潰して、雑草だらけの庭にコンクリートを敷いて、駐車場にして、病院が系列の介護施設に貸してるねん」「えーっ、又貸しやん」「ええねん。あの、どうやって運んで来たか知りたい、と長年思ってた巨石が無くなって、きれいに整備されたから、良かったわ」。今年は「まあ、ええねん」と気楽に生きてみよう、と思った次第。

 

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椿

 

 

最愛の母が急逝して丸三年になろうとしている。 心臓が弱かった彼女は、直前まで笑っていて、突然、スッと眠るように逝ってしまった。別れを惜しむことも、感謝の言葉を伝えることも出来なかった。病弱な母を支えるために、大学時代から、かなりの自分の時間と気持ちを捧げてきたつもり、それでも至らぬ子供でごめんなさい、幸せだった?と聞くことも許されなかった。母は慎ましやかに生きた一介の主婦だったが、地域の施設にピアノを寄付したり、恵まれない母子たちを援助したり、と微力ながら社会貢献をしていたので、訃報を聞いて、びっくりするほどの人が悲しんでくれた。部屋に入らないくらいの多くの花が届き、病弱な自分をコントロールしながら懸命に生きた母の人生を誇りに思った。半年くらいたって、微かな疑問が浮き出てきた。南庭に面した道路を挟んで向かい側に、母を本当に頼りにしてくれた婦人がいる。引っ越ししてきてすぐに、ご近所との付き合い方や、子育ての相談に乗り、お互いの家族の成長を祝い、おすそ分けを交換し、長期に留守をする場合は連絡先を託してきた。その方から、お悔やみをいただくどころか、顔すら見なくなった。さらに年月が経ち、母とは何かあったのかもな、と思うようになった。2年ほど経ったある日、最寄り駅から自宅に向かう路上で、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、そこに例の婦人が立っていて、静かに話し始めた。「私はね、〇〇さん(母のこと)が、もうこの世に居ないなんて信じていないし、認めていない。声は聞こえないけど、そういう時もあったし。けど、会えない。ほら、お宅の塀から椿の枝が出ていて、花が1輪、こちらに向いて咲いているでしょう?あっ、〇〇さんだ。私を励ましてくれてる、て思っているの」。その夜、前の道に回って、その椿を月あかりの下で見た。お母さん、あなたはたくさんの人の心の中で生きているのね。お母さん、いま、天国で何してる?私は「悲しみと絶望」という名の湖の湖畔を変わりゆく景色に励まされながら、グルグルと廻っている感じ。あなたを失って急に老け込んだお父さんと力を合わせて、何とか、やっているよ。

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山の端

 

今年は多くを失った。取材した女優さんに「私、あそこの焼きそばがないとダメなの」と教えてもらった五条通に面したお好み焼き屋さんが閉店した。おばさんたちが、独特の手法で焼くキャベツいっぱいの焼きそばは、海外にも紹介されて、旅行者からも愛されたが、57年の歴史に幕を下ろした。日本を代表するアパレル会社が上場を廃止して倒産。パリコレでおなじみのデザイナーのコレクションを扱っていて、とても贔屓にしていたが、ある日、突然に購入できなくなった。中学時代から通っていた滋賀県大津の百貨店が閉店した。ポストには、日に2,3枚の割合で閉店や廃業の知らせが投げ込まれる。時世と言えば、それだけだけど、しかし、一気に思い出の場所や大好きなものが、手のヒラから流れおちる白砂のように無くなっていく。人の感情に「あきらめ」というのがあって良かった。でないと、惜別の沼から這い上がれない。しかし、失って一番、悲しかったのは何かと聞かれれば、それは自宅から見えていた山々の端だ。自宅の斜め前に広がる、100台ほどの駐車場の敷地半分にマンションが建設されている最中だ。あれほどの広さの駐車場を維持するのは大変だっただろう、と考えていたが、だんだん足場が作られていき、気が付いた。我が家の居間から庭を通して見る山々の端が見えなくなる。試験前日の徹夜明けに見た。海外旅行に行く前に浮き浮きしながら見た。友人からの電話を受けて心配しながら見た。父親とけんかして、申し訳なくて反省しながら見た。何千回と見た。特に美しいのは、山の端が夕暮れに染まってから薄暮に向かう時。励まされ、癒され、あたりまえにあると思っていた時間。その風景がさえぎられて失われた。そして、また、あきらめるんだろう。生きるって、こういうことなんだ。

 

 

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悲しみ

 

大切な人が、ある日、逝った。元気だったのに、突然に。明日はあると思っていたのに。耐えられないのではないかと思うような悲しみが押し寄せる。その人が生活をしていた空間に身を置くと、二の足の裏から体の軸を伝って心臓を射るような思いが襲う。数々の物が遺されたが、中でも洋服と靴下は抱きしめたくなるような愛しさだ。この服を着て、笑いながら紅茶を飲んでいた。歩き方に癖があったから、靴下のいつも同じところがすぐに薄くなった。洗濯が下手だと怒られた。共に異国を巡る旅を満喫した。もう二度とその体に触れることができない。遺された服たちを手にとると、それを着た姿が次々に浮かび、涙があふれた。いつかは訪れると恐れていた別れ。永遠に続くものは何もない。時の流れと共に悲しみは薄れると言う。たとえ、薄れても消えはしない。ありがとう。そして、さようなら。また、会える、その時まで、さようなら。でも、本当は、一度でいいから、すぐに会いたい。